【国際通りの歴史】奇跡の1マイル!沖縄を代表する商店街の今昔

国際通りの歴史

タイトル(国際通りの歴史)

国際通りの歴史を見ていく

沖縄の中でも有数の観光地、国際通り。

古くは港町として栄えた、那覇の中心地から首里へとつなぐ道路として。戦後は沖縄の生活を支えた闇市として。日本統治に変わった後は映画やデパートといった地元県民の娯楽の中心地として。

いろいろな顔を見せながら変遷してきた那覇国際通りの歴史。

今でこそ国内外から多くの人が訪れるメインストリートとして有名になりましたが、ひと昔までは地元の人でにぎわう、地元の人がちょっと背伸びをして遊びに集う場所でした。

今回は観光地として発展するまでの国際通りを振り返っていきたいと思います。

戦前の国際通り

戦前の国際通り周辺地図

国際通り(橙)と旧市街地(緑)、戦後初期の繁華街(青)の位置

戦前・那覇の中心地

戦前の那覇市役所

戦前の那覇市役所:那覇市歴史博物館提供

戦前の那覇は西・久米・東町といった、現在の国道58号線より海側の地域で栄えていました。

県内初の鉄筋コンクリート建造物だった那覇市役所をはじめ、那覇市公会堂、山形屋沖縄支店が建ち並ぶなど、行政・経済・文化の中心地として発展していたのです。

一方で現在の県道39号線周辺(国際通り付近)は元々、川の周りに湿地が広がる人通りの少ない土地でした。

1900年代前半の国際通り

新県道(戦前の国際通り)

戦前の新県道(国際通り):那覇市歴史博物館提供

1920(大正9)年に沖縄県庁が西町から現在の場所に移転、1925(大正14)年には那覇警察署が東町から県庁前に移転したのを契機に、那覇と首里を結ぶ道路の整備が始まります。

当時は国際通りという名前は無く、新しい県道ということで『新県道』と呼ばれていました。

1934年(昭和9年)5月に開通式を行った新県道は、路線バスが走るようになるなど少しずつ人通りが増え、徐々に賑やかさが広がっていきました。

戦後の国際通り

旧牧志公設市場、2023年3月に新施設が開業。

住民の帰還が始まる

戦争によって大きな損害を受けた新県道周辺。

終戦直後アメリカ軍に土地を接収されてしまいますが、住民が帰還に向けた交渉を行う中で少しずつ土地が開放されてきました。

そのうち早い段階で住民が帰還出来たのが壺屋の町。米軍から特別に許可が下り、やちむんの窯元の人々が土地に戻ることが出来たのです。

人が増えればそこに食料品や雑貨など日用品を売買する店が並び始める。こうして壺屋地区周辺に人々が集うようになり、開南や牧志には非公認の商店街、いわゆる『闇市』が形成されていきます

行政が闇市を合法化

戦後の牧志公設市場

戦後の牧志公設市場。建物は廃材で造られている。(那覇市歴史博物館提供)

この闇市、米軍の規制に従わない違法なものでしたが、周辺住民の生活を支えていたのも事実でした。

そこで行政はこの闇市を取り締まるのではなく、そもそも合法にしてしまおうと動くのです

那覇市が一帯を取り仕切り市場を建設。この市場こそが今では全国で有名になった第一牧志公設市場の原型です。一度盛り上がり始めた街は更に周辺へと拡大を見せ、人が人を呼び周辺に次々と商店が出店。

大きな町として発展してきた市場周辺には百貨店や娯楽施設と、大型施設も誕生していきます。後に沖縄三越として名を変える、大越百貨店が牧志に出来たのもこの頃ですね。

発展する国際通り

那覇市ぶんかてんぶす館

アーニーパイル国際劇場があった、現在の那覇ぶんかてんぶす館

『国際通り』の誕生

国際劇場

国際劇場。国際通りの名付け親ともいえる。(那覇市歴史博物館提供)

戦後の焼け野原から賑わいを見せ始めた闇市周辺は、百貨店の登場や市場の完成など、発展を続け様々な施設が建設されます。その一つが劇場・映画館。

1948年に「アーニー・パイル国際劇場」が誕生。現在は那覇市ぶんかてんぶす館が立つ場所に存在しました。

当時は単に県道と呼ばれていた道路も、このシンボル的建物が出来たことにより、劇場の名前を取って『国際通り』と呼ばれるようになります。

それ以来、『国際通り』は70年以上使われる名称となりました。

娯楽施設など発展が続く

1957年 夜の国際通り(沖縄県公文書館所蔵)

そのあとは国映館・グランドオリオン・沖映本館・東宝劇場etc…と当時の娯楽の王であった映画館が次々と建設されます。

周辺の通りの名前には、この映画館の名前から来た通りの名前が沢山あります。沖映通り、グランドオリオン通り、平和通り。。。

1972年以降、日本統治へと変わった後も、多くの人がちょっとオシャレをしてキラキラした那覇の中心地を目指したのです。実際にこの頃の国際通りを知る人と話をすると、ほとんどの人が当時の華やかさを熱弁してくれます。

買物・娯楽・仕事とまさに地元住民の生活の中心として発展してきたのが戦後の国際通りなのです。

観光地へと変わる国際通り

現在の国際通り

現在の国際通り、土産品店や飲食店が立ち並んでいる。

ショッピングの場所として人が集まる

大越百貨店

写真右側に映るのが沖縄三越の前身である大越百貨店。(キーストーンスタジオ、那覇市歴史博物館提供)

こうして地元の人々がショッピングに集うようになると、映画館やデパート以外にも様々なお店が並び始めます。

次第にカメラや腕時計といった高級品も取り扱われるようになり、それを目当てに日本人も国際通りを訪れるようになりました。

当時の沖縄はまだ米施政権下。ドル経済圏内で経済活動をしている沖縄は、カメラや腕時計といった外国製の製品を、日本で購入するより安くで手に入れることが出来たのです。

観光地として変わっていく国際通り

1972年 歩行者天国で賑わう国際通り(沖縄県公文書館所蔵)

戦後沖縄を訪れる日本人の多くは、戦没者の慰霊を目的で訪れる人が多かったのですが、この時代から国際通りでショッピングという目的も出てきました。

外からの訪問客が増えると、当然その方々をターゲットとしたいわゆる土産品店や雑貨店など現れ、そこには県内の住民だけではなく外の人も集うようになっていきます。これが国際通りの観光地化の流れを作る一つのきっかけとなりました。

一方、米軍から返還された那覇新都心地区の開発や、郊外型のショッピングセンター進出が相次ぎ、地元の住民が国際通りを訪れる必要性が薄まっていきます。

人々の興味が多様化する中で国際通りを訪れる地元住民が減り始めた結果、観光地としての立ち位置がより鮮明になってきたのがこの時代です。

現在の国際通り

旧國映館跡地

かつて國映館があった場所。現在はホテルが建っている。

国際通りの変遷

國映館

比較的最近まで残っていた映画館「國映館」(キーストーンスタジオ、那覇市歴史博物館提供)

こうして観光客向けの店が増えだすと、それがさらに観光客を呼び寄せることとなります。

南国風の商店街、見た目も映える鮮やかな市場の生鮮食品、アメリカ統治の影響を受けた街並みなど、日本にはない街並みの雰囲気が受けて、いつしか観光地として国際通りが認識されるようになりました。

同時に郊外での都市開発が進んだ結果、地元の人向けの商店や娯楽施設が姿を消していきます。国映館やグランドオリオンといった歴史ある建物を残せなかったことは残念でなりません。

現在、國映館跡地は外資系のホテルへ、グランドオリオン跡地は飲食店街へと姿を変えています。

現在の国際通り

柳が植えられた国際通り

銀座商店街から寄贈されたという柳。(那覇市歴史博物館提供)

国際通りを観光地として開発するために、那覇市では街路樹にヤシの木を植え、電線の地中化を行い、歩道の拡張を行ってきました。これにより普通のいわゆる沖縄らしい街並みだった道路も、南国風の景色へと様変わりしていきます。

因みに沖縄がまだアメリカ統治下だったころ、街路樹は柳が植えられていた時期もあったそうです。

今の様子からは想像もつきませんよね。

周囲の商店街

のうれんプラザ

のうれんプラザ

国際通り周辺の環境

国際通りはメインストリートとして大きく発展してきましたが、そこにつながる多くの通りもそれぞれ個性があり、面白いお店が連なっています。

この界隈は小さな道も多く、慣れるまでは迷子になることもありますが、日々新しい発見が出来て面白いことばかり。

ここではほんの一部ですが、界隈の商店街も紹介してみます。

市場本通り

市場本通り

コロナ禍も落ち着き始めた市場本通り

国際通りに面している最大級のアーケード商店街。沖縄のお肉やお魚の対面売りで有名な、牧志公設市場へとつながる商店街としても知られ、日々多くの人で溢れています。

現在ではお土産や果物などの物産品を扱うお店が多く並びますが、かつては駄菓子や餅屋が多く「お菓子通り」と呼ばれたことも。

市場中央通り

市場中央通り

お正月.商店街はお休みモード。

場本通りからさらに奥へ進むと現れる市場中央通り。衣類品や日用雑貨を販売しているお店が残っており、奥へ進むほど古い商店街の雰囲気を感じることが出来ます。

最近ではセンベロを謳う飲食店も増えていて遅い時間まで賑わっているほか、クリスマス時期になるとイルミネーションの飾り付けが行われたりします。

太平通り

太平通り

いつも繁盛の青果店。

野菜の市場「のうれんプラザ」へ繋がる地元色強いディープな商店街です。

八百屋に金物屋、総菜、日用品など、この数十メートルだけで生活に必要なものは何でもそろってしまうという、スーパー顔負けの充実具合。

一度訪れるとハマってしまう。そんな独特な雰囲気を持つ場所です。

のうれんプラザ(農連野菜売場)

(農連野菜売場)のうれんプラザ

早朝から営業。お店の仕入れに訪れる方も多い。

太平通りをさらに進むと、「のうれんプラザ」という新しい施設があります。

早朝から野菜の売買が行われ、そば屋さんなどの飲食店も入居。

アルコールの提供をしているお店もあり、昼のみが出来るちょっと贅沢な空間が広がっています。

浮島通り

浮島通り

古着屋さん、お洒落な居酒屋などファッションストリート。

古着屋が立ち並ぶお洒落スポット。またお洒落な居酒屋、barも多く、比較的若い人も多く歩いています。

また雑貨店やパン屋さん、オーガニック系の飲食店もあり、こだわりの品質を求める方に人気のある通りです。

平和通り

平和通り

旧三越前へと抜ける商店街。

少し奥まった場所に位置する牧志公設市場 衣料・雑貨部では年配の方が多く、中心地に比べてゆったりと時間が流れる心落ち着く空間(2022年に閉場)。

最近では国際通り寄りの通りではお土産品店が多く、奥に進むと沖縄料理や居酒屋といった飲食店が増えています。

また、10月になるとハロウィンの仮装大会が開催されていますよ。

イベント

国際通り(那覇大綱挽)

国際通りのイベント!

毎週日曜日、12時~18時にかけてトランジットモール(歩行者天国)となり、イベントが行われたり、遊具で子どもが遊んだり、大道芸が見れたりと様々な催しが行われます。

また春先には沖縄国際映画祭、秋には首里城祭、冬になるとNAHAマラソン、そのほか世界のウチナーンチュ大会でもイベントが行われ、県内外、国内外から人が集う国際通りの名に負けないくらいたくさんの人が訪れる場所となっています。

非日常感があって、日本だけど日本じゃない、そんな風景が人を寄せ付けるのでしょう。

国際通り、面白くて大好きです!!

以上、国際通りの歴史についてご紹介しました!

※当サイト調べの情報で実際には異なる場合がございます。ご了承ください。

※一部資料について、那覇市歴史博物館さまより許可を得て掲載しております。