【簡単に解説】線で繋がる琉球・沖縄の歴史

【琉球史】琉球・沖縄の歴史

琉球の歴史

日本とは異なる過去

日本とは異なる歴史をたどってきた琉球(沖縄)。

実際に琉球の歴史を思い返すと、断片的な記憶でしか思い出せないことも多々あります。

沖縄戦の事、琉球王朝の事、首里城の事、点として一つひとつは聞いたことがあっても、線として繋がらない事象もあるかもしれません。

ここでは、琉球がどこから来てどういう経緯で日本へと編入されたのか。簡単ながらなぞっていきたいと思います。

旧石器時代(約6600年前以前)

港川人の化石が見つかった「港川フィッシャー」

旧石器時代の琉球

古くは大陸と陸続きだったと言われる琉球。

琉球の人のルーツは厳密にはわかっていませんが、中国大陸南部やオーストラリア大陸との関係が言われています。

沖縄で発見された「港川人(みなとがわじん)」は完全な形で見つかった日本最古の化石人類と言われ、約20,000年前の先住民と考えられています。

頭から手足の揃った完全な形での化石の発見はアジアでも初めてのことで、国際的にも有名な発見となりました。

しかし当時の品が一切出土しない為に、生活の様子はわかっていないことがほとんどです。

ちなみに、最も古い化石は山下洞人と呼ばれる化石で、約32,000年前に生きていた人と推定されています。

貝塚時代(約6600年前~約900年前)

原始生活

6600年前頃になると、水や食料に便利な海岸付近で生活しており魚や貝を食べ、他にも猪や木の実を食べていたことがわかっています。

また日本の縄文時代の文化の影響も受け、琉球独自の土器や貝を使った道具も見つかっています。

琉球で加工された貝のアクセサリーは日本でも人気を集め、そのアクセサリーは北海道からも出土したという記録も残っています。

古琉球(約900年前~1609年)

農業が始まる

約900年前、日本が平安時代を迎える頃には琉球・日本間での交流が増え、交易や移住などが始まりました。

同時に農業が広まり各地でシマと呼ばれる集落がまとまり始め、それをまとめる実力者が現れ始めましす。

次第に各地の実力者はグスクと呼ばれる城の築城を行ったりして、勢力の拡大を図ります。

琉球戦国時代へ突入です。

三山時代

琉球の戦国時代では各地で争いが起きますが、そのなかでも力を持つ実力者が3つにまとまっていきます。

今帰仁を中心とする北山、浦添・首里を中心とする中山、糸満を中心とする南山。

当時特に力を持っていたのが浦添の実力者たち。琉球の初代国王とされる舜天をはじめ、初期の国王の多くがこの地の出身の人たちでした。

またちょうどその頃、中国からは使者が訪れるようになります。中国との交流が始まり三山が競うように交易をおこない、それぞれの実力者たちが大きな利益を生み出していきました。

琉球統一

琉球戦国時代を勝ち抜いたのは佐敷の有力者「尚巴志」。当初目立った存在ではありませんでしたが、着実に勢力を拡大します。

南山最大勢力を誇る大里グスクを攻略すると1406年には中山を制圧。1416年には北山の今帰仁グスクを攻略します。

尚巴志は1417年から首里城周辺の整備をはじめ、1429年に残る南山の勢力を完全に制圧。

こうして琉球王国が成立しました。

秀吉の圧

16世紀に入ると、周辺国の発展に伴い交易が激化。琉球の中継貿易も陰りが見えるようになります。

同時期、日本を統一した豊臣秀吉は琉球に対して朝鮮出兵の為の兵糧を要求しますが、中国との関係もあるなか難しいかじ取りを強いられます。

そして徳川家康が天下を取ると、悪化した日本と中国の関係の仲介を琉球にと考えるようになります。

しかし秀吉による厳しい要求を強いられた琉球はそれを断り、結果として薩摩の侵攻へと繋がりました。

近世(1609年~1879年)

薩摩の侵攻

1609年。薩摩島津が侵攻。島津に制圧された琉球は日本へと編入されます。

徳川幕府の思惑で中国との交渉仲介を試みますが、その動きを警戒した中国との交渉は頓挫。

その後も薩摩からの年貢の要求や、江戸への挨拶回りが義務付けられ琉球の暮らしは疲弊。邦の財政も悪化し、焼失した首里城の修復もままならないほど衰退してしまいました。

琉球の再興

17世紀中頃、羽地朝秀(はねじちょうしゅう)は強いリーダーシップで改革を始めます。

当時蔓延っていた不正をただし、行政の合理化を図ることで次第に琉球経済は立ち直っていきました。

また、儀間真常(ぎましんじょう)は琉球芋を普及し飢餓から民を救い、黒糖生産のシステムを確立させます。

軌道に乗った琉球の改革を更に推し進めたのが蔡温(さいおん)。土木や交易によって再び国力を高めることに成功します。

琉球文化の最盛期

このとき、現在に通じる文化芸術の多くが生まれています。

お仏壇のトートーメ―(位牌)や亀甲墓といった文化。琉球舞踊や組踊、美術工芸品など、江戸の人々にも認められる様々な文化が生まれました。

軍事力を持たなかった琉球にとって、中国と日本に支配されるような形でありながら、文化の力で和平を保ってきたのです。

ペリー来航

19世紀に入り、欧米各国の船が琉球を訪れるようになります。1853年にはあのペリーも来航しました。ここでも琉球の外交に島津の意向が強く影響していました。

そして1872年、日本は琉球を琉球藩王として宣言し、後に中国との関係を絶たせます。

1879年。ついに日本政府は琉球へ軍を送り込み首里城を制圧。最後の王、尚泰王を日本へ連れ帰るとともに、450年続いた琉球王国は終焉を迎えました。

戦前・戦中(1879年~1945年)

琉球併合・廃藩置県

王を連れ去った日本政府は1879年、沖縄県を設置。しかしその後も一部では反発の動きが続きました。

しかし日清戦争によって日本が勝利すると、琉球内でも日本の支配を受け入れざるを得ないと考えられるようになります。

王国復活は難しいという考えのなか、琉球としての主体性を残す試みを続けますが日本による様々な妨害を受けて挫折しました。

同化推進・皇民化教育

日本による影響が強まった沖縄県は日本への同化が進められ、琉球の文化や方言を徹底的に排除していきます。

沖縄に対する差別が激しかった当時、同化によって地位向上につながると考えた琉球の人々は進んで日本人になることを選びました。

戦禍とソテツ地獄

日本による支配が進むなか沖縄は深刻な不況に陥ります。

食べ物にも困窮し、毒を持つソテツを常食とするほどの状況に追い込まれ、多くの方が命を落としました。

この頃日本は太平洋戦争へと突入。

1944年10月10日。米軍による空襲で那覇市街地の9割が壊滅。

1945年4月1日には米軍が沖縄に上陸し、激しい地上戦が始まります。

そして6月23日。牛島司令官が自決したことにより、沖縄の組織的戦争が終結したとされていますが、その後も争いは続き、正式に降伏調印が行われたのは9月7日の事でした。

戦後(1945年~)

銃剣とブルドーザー

終戦後、沖縄は米軍の支配下に置かれ、米軍の土地収用令の公布により、住民の土地を強制的に接収していきます。

軍用地代が支払われた土地も法外な安価の支払いとされ、県民の不満が高まっていきました。

また、米ソ冷戦の影響もあり沖縄は軍事基地の建設が進められ、基地を起因とする事件事故が多く発生していました。

そのなかでも1959年の小学校への墜落事故は有名な事件。小学生含む18人が命を落とし、210人が重軽傷を負うという凄惨な現場でした。

反米・反日抗争

数々の不祥事を受けて住民は基地や米軍政府に声を上げるようになります。

その最先端に立ったのが瀬長亀次郎

那覇市長に当選した瀬永亀次郎は、住民の為に米軍と様々なやりとりを行い、少しずつ米軍の譲歩を引き出していきます。

1968年には琉球政府主席に屋良朝苗が選ばれ、基地の全面返還を強く要求していきます。

そのうねりは県全域へと広がりを見せ、抑えきれなくなった日米両政府は沖縄を日本属へと戻すことを決めました。

沖縄振興・海洋博覧会

1972年5月15日。沖縄は再び日本へ属することとなりました。

しかし当時の住民が望んだ米軍基地の撤去は叶わず、今なお対立を生み出す状況となっています。

日本へと国変わりした沖縄は様々な振興が行われ、その代表的なイベントが1975年に開催された沖縄海洋博覧会でした。

これにより沖縄のリゾートとしての魅力が全国に広まり、沖縄への観光客が大きく増えていくことになります。

観光1,000万時代

様々な問題を抱えつつ、沖縄は発展を遂げていきます。

1978年、当時米軍統治の名残だった車の右側通行が廃止。

1986年、那覇市小禄地区が米軍より全面返還。

1987年、那覇新都心地区が米軍より全面返還。

1992年、首里城正殿復元・首里城公園開園。

2000年、九州沖縄サミット開催。

2003年、沖縄都市モノレール開通。

2019年、首里城復元工事完了。

2019年、入域観光客数は1,000万人を超えハワイに並ぶ水準に成長。

まだまだ課題の山積する沖縄ですが、明るい未来を期待したいですね!

以上、琉球・沖縄の歴史でした

※当サイト調べによるものです。