琉球の歴史そのもの!『首里城』について

琉球の象徴「首里城」

琉球の歴史そのもの

琉球王族の居城

沖縄を代表する観光地『首里城』

2000年には九州沖縄サミットが開催され、首里城正殿の前で記念撮影が行われたり首里城跡が世界遺産に登録されるなど一気に知名度が広まり、国内外から多くの方が訪れる地となりました。

首里城の歴史は琉球の歴史でもあり、当時から親交の深かった中国の文化や建築様式を取り入れたほか、日本や東南アジアとも交流があったことから琉球独自の文化を作り上げてきました。

首里城はその象徴でもあるのです。

今回は首里城の歴史や各施設についてひとつずつ見ていきたいと思います。

首里城の建築様式

中国に似た漆塗りの建物

首里城と言えば漆塗りされた真っ赤な建物が印象的です。門や正殿などの建物には中国の影響を強く受けていて、見た目から日本の城とは大きく異なることがお分かりいただけると思います。

首里城は琉球の戦国時代が終わり「琉球」として統一された時期に建てられたもので、戦を想定した造りにはなっておらず政治の中心地として設計されているのも特徴

その為、一つひとつの建物が平たく階層も低くなっているのです。

また、城壁が緩やかな曲線になっているのも特徴で、首里城だけでなく県内各地にある城跡では同じようなつくりを見ることが出来ます。

首里城の成り立ち

戦前の首里城正殿(那覇市歴史博物館 提供)

首里城成立は15世紀前半とみられている

14世紀頃、力をつけた有力者が沖縄本島では各地で地域を束ね勢力を競い合っていました。各地の有力者は当時から中国との交流を行っていて、その記録も中国の史料に残っているそうです。

中でも特に勢力を持っていたのが佐敷(現・南城市)の尚巴志。

尚巴志は交易の中で多くの鉄を手に入れ、農業分野で著しい発展を起こすなど民衆の心も掴んでいきます。

そして1429年、各地の有力者達と渡り合い初の沖縄本島統一を果たします。

これが琉球王朝第一尚氏の始まりであり、当時中山の城として使用されていた首里城を拠点として国を整備していきました。

首里城の具体的な建設時期はわかっていないのですが、14世紀頃に建てられたと考えられています。

各施設について

首里城は東西400m、南北270m、面積にして46,167m2に及ぶ広さで、沖縄セルラースタジアム5.5個分の面積。

その中に正殿や守礼門のような建築物が広がっています。

主要な各施設は次の通り。

正殿

首里城正殿は木造3階建て構造で、1階は国王が政治や儀式を行う場として、2階は主に王妃や身分の高い女官が使用していました。

2階には中国皇帝から贈られた扁額が飾られ、ここで儀式や祝宴が開かれることもあったようです。

正殿の階層の異なる建築や装飾された龍柱は中国にも例のない建築で、琉球独自の建築様式と考えられています。

また、柱や床には龍や鳳凰・麒麟が描かれ、格式の高さを伺うことが出来ます。

行政施設

正殿前に広がる空間は御庭(うなー)と呼ばれ、首里城の中心にあたる場所です。

様々な行事が行われた場所で、中心の道を国王や中国皇帝の使者など、要人たちが通ってきました。

御庭を囲むように役人たちが仕事を行っていた北殿、行政の窓口の働きをしていた南殿が建ちます。

守礼門

首里城の敷地に入って初めにたどり着くのが守礼門。『守禮之邦』の扁額が示すように礼節を重んじる邦、という意味が込められています

諸外国の要人が訪れることが多い琉球ならではのおもてなし。

沖縄を代表する門と言っても過言ではない守礼門ですが、ここは有料区域外なのでタダで記念撮影が出来る場所なんですよ。

龍樋

瑞泉門のそばにあるのが、天然の湧水の出どころ『龍樋』。龍の彫刻から水が湧き出していることからこう呼ばれるようになりました。

樋とは水の通り道の事を表し、ここで使われている龍の彫刻は1523年に中国から贈られたもの。

王宮の飲料水として使われていたほか、中国皇帝の使者が来琉した際には那覇空港近くにあった来賓用の宿舎まで、毎日水を運んだと言われています。

因みに、首里城のそばにある泡盛メーカーも瑞泉は、龍樋のように清冽(せいれつ)で芳醇な酒造りを目指すという願いの下、この門の名前から名付けたそうです。

過去の火災

2019年に大規模な火災によって焼失した首里城各施設ですが、過去にも火災による消失を経験しています。

1453年 -王位争い(クーデター)-

最初の消失は1453年、内政が不安定になった琉球で王位争いが激化。城内は完全に破壊されたと記述があります。

第一王統・尚金福亡き後の事でした。

1660年 -火災-

1660年には火災によって焼失。

日本・薩摩の侵攻や搾り取りもあり財政難に陥っていた琉球。再建には11年を要しました。

1709年 -火災-

1709年の火災では正殿のみならず周辺施設も焼失し、国外から物資を調達するなど国の苦しい事情も見られました。

1879年の日本による琉球処分以降は、軍の施設や学校として使用されるようになります。

老朽化も進み一時は解体も検討されますが、歴史的建物としての価値が認められたことで国宝として改修されその姿を残すことが出来ました。

1945年 -沖縄戦-

戦時中は日本軍の司令部が入りました。アメリカ軍艦による海からの攻撃、地上戦による銃撃戦など激しい攻撃を受け焼失しました。

戦後、1979年に首里城跡地に建っていた琉球大学が移転すると本格的な復元作業が始まります。

戦争を経て当時の資料の大部分が失われるなど復元は困難を極めますが、多くの人の英知を結集して1989年から再建工事が始まりました。

正殿や関連施設の整備が整った1992年には首里城公園として施設が開園。更に復元工事は続き、2019年1月に全ての工程が完了しました。

2019年 -火災- ※閲覧注意!

2019年10月31日未明。正殿を含む6施設の全焼、工芸品等432点の消失などを含む大規模火災が発生。

火災の原因については公式に不明と結論が出ています。

被害の大きさや衝撃的な火災の映像がとても強く印象に残っています。

現在の様子

発災から現在まで

発災直後に玉城知事より『絶対に再建します』の強い言葉に勇気づけられた県民も多かったはず。当時の衝撃は半端なものではありませんでした。

翌月2019年11月には沖縄県庁に首里城復興戦略チームが発足し、再建に向けた様々な動きが加速していきました。12月からは少しずつ一般の人が入域出来る場所が増え、夜間のライトアップも始まりました。

現在は復興の様子を含めて首里城を見学できるように、仮設の見学通路が設けられ、変わりゆく首里城の様子を見ることが出来るようになっています。

現在の状況

現在は仮設の見学ルートが設置され、中の作業の様子を見ながら復興の流れを感じることが出来るようになっているほか、首里城下町や西海岸を一望出来るようになっていたり、車いすでも通行出来るように設計されています。

また、首里城正殿下にあった『基礎遺構』についても公開を再開していて、長い歴史を持つ首里城の基礎の部分を見ることが出来るようになっています。

首里城正殿の再建

首里城は2026年の正殿完成を目指して関係機関が動いていて、2022年秋に着工。

沖縄総合事務局で入札が行われ、「清水・國場・大米特定建設工事共同企業体」が落札。

落札価格は約51億円工期は2026年9月30日となっています。

また、正殿が完成する2026年以降に北殿や南殿の建築にも着工する予定となっています。

info 首里城公園

夜のライトアップも人気のスポット!

開園時間

無料区域:8:30~18:00  有料区域:9:00~17:30

入場料金

大人:400円  高校生:300円  小・中学生:160円  6歳未満:無料

※当日に限り、チケットの半券の提示で再入場が出来ます。

※モノレールのフリー乗車券の提示で団体料金の適用が行われます。

所在地

沖縄県那覇市首里金城町1-2

●タクシー:那覇空港から約40分

●バス:系統番号7,8(首里城下町線)、『首里城前バス停』にて下車。徒歩1分で守礼門到着。

系統番号1,14,346、首里城公園入口バス停にて下車。徒歩5分で守礼門到着。

系統番号9,13,25,97,125、山川バス停にて下車。徒歩15分で守礼門到着。

●モノレール:首里駅にて下車。徒歩15分で守礼門到着。

首里城公園公式Webサイト

https://oki-park.jp/shurijo/

以上、首里城についてまとめました。

※当サイト調べによるものです。